ハレトケブログ

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「価値の遠近法」という教養−鷲田清一による大阪大学卒業式式辞より−


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鷲田清一(京都市立芸術大学理事長・学長)が、2011年3月25日、当時総長を勤めていた大阪大学の卒業式において述べた式辞は「教養とはなにか」を考える上でとても印象深く、いまでも読み返す機会がある。

 

当時、世間は二週間前に起きた東日本大震災の渦中にあり、本式辞は、被災していないわたしたちが被災地に対してどのように接していくべきかを問う内容から始まった。

 

鷲田は、ただそこにいてくれることの価値を表すcopresenseという言葉を参照し、被災していないわたしたちが、普段通りに生活していること、なにかあったら支える準備や関心を持っていることに価値があることを示唆した。

 

その後、彼は卒業生に向けたメッセージに移る。真のプロフェッショナルに必要なのは、専門領域だけでなく、専門外の領域の視点を持ち、つまり、複眼で物事を捉えられることであること。誰もがリーダーになることでは社会は成り立たず、質の高いフォロワーシップが求められること。そして、社会の状況に応じてリーダーにもフォロワーにもなれる「ワンオブゼム」としての「成熟した市民」にならなければならないこと。

 

さらに「成熟した市民」になる為にどう取り組むべきなのか、ということ。これについては彼の式辞をそのまま参照したい。

 

良きフォロワー、リーダーを真にケアできる人物であるためには、フォロワー自身のまなざしが 確かな「価値の遠近法」を備えていなければなりません。

 

「価値の遠近法」とは、どんな状況にあ っても、次の四つ、つまり絶対なくしてはならないもの・見失ってはならぬものと、あってもいいけどなくてもいいものと、端的になくていいものと、絶対にあってはならないものとを見分けられる眼力のことです。

 

映画監督の河瀬直美さんの言葉を借りていいかえると、「忘れていいことと、 忘れたらあかんことと、それから忘れなあかんこと」とをきちんと仕分けることのできる判断力のことです。こういう力を人はこれまで「教養」と呼んできました。  

 

わたしはこれを読んで「立ち位置を近くも遠くもでき、視界を広く持ち、複合的な視点から、物事を4領域に分類でき、さらにその分類に基づく意思決定を行動に移すことができる力が『教養』である」と理解した。

 

わたしたちは、常日頃より様々な立場を背負って生きている。たとえば、わたしは会社員であり、セールスであり、息子であり、孫であり、夫であり、父にもなり得る。立場によって物事の見方は変わり、緊急度によって物事を接近して見すぎ判断軸が偏ってしまう。人生は判断に迷うことの連続であるように思う。

 

そんなとき、鷲田のいう「価値の遠近法」によって物事を遠くから見る。そして、個人・会社・社会といった幅広い領域で得た「知見」という判断軸を編み上げて、確固たる判断を持ち、実行に移す。これができることが「教養」である、と。

 

判断を確固たるものにするには、「学び」が必要であり、この「学び」には終わりはないと思っている。ただ、無闇に学ぶのではなく、先人の叡智に触れる際にも、新たなテクノロジーを学ぶ際にも、「教養」が物事を判断する為の軸になるのもであることを忘れないようにしたい。判断軸を複数持つために、もしくは、判断軸を強くする為に「学ぶ」のである。

 

鷲田はこの前年の卒業式で「教養」について別の表現を用いていた。

 

自分が何を知っていて何を知らないか、自分に何ができて何ができないか、 それを見通せていることが「教養」というものにほかなりません。

 

世の中のすべてを知り尽くすことが「教養」ではなく、自分が何を知り、何を知らない状態で上述の4分類の判断をしているのか、を認識していることが「教養」と言えるのかもしれない。

 

(参照)

大阪大学ホームページ